コラム「前野宏のホスピスのこころ」~第4回~
「役場に行きます」
ある日の人生回診(私はホスピス病棟回診のことをこのように呼んでいます)での一コマです。
80歳代のAさん。肺がんの末期状態でした。認知症もあり、普段あまりしっかりとお話しが出来ない方でした。病状が進み、残された時間はそれほど長くないと思われました。
私はいつもの通り、「Aさん、今日はいかがですか。」と話しかけました。するとAさんはたどたどしい言葉で、「今日、役場に行きます。」と言われたのです。かなり衰弱されていたので、言葉もはっきりと聞き取れない感じでしたので、私は「役場ですか?」と聞き直しました。すると、彼はうなづきません。そして「やくばに行きます。」とまた言いました。私はもう一度「やくばに行きたいのですね。」と問いかけると、もう一度彼は力を振り絞ってこう言ったのです。「やきばに行きます。」と。私はちょっとびっくりして「焼き場ですか。」と言うと、彼はうなづきました。「火葬場に行きたいと言うことですか。」と聞くと、また強くうなづきました。
私はちょっとドキッとして、これはちょっといつもと違うなと思いました。気楽な回診の空気が重いものに変化していくのを感じました。この日は私と一緒に5-6人のスタッフが同行していたと思いますが、彼らからも緊張感が伝わってきます。
彼は続けました。「お釜に入れてほしい。」ということをたどたどしく言われました。ここに至って、お話しの深刻さは頂点に達します。自分を火葬してほしいということを言っておられることはもうすでにみんなが理解しました。私は話しの思わぬ展開に動揺していたと思います。私は思わず、「Aさんを生きたまま火葬することは出来ませんよ。」と言ってしまって、しまったと思いました。そんなことは百も承知でAさんは必死で訴えているのでした。
私は週1回病棟回診をしています。Aさんのご様子も毎回報告を受けていました。Aさんは決して孤独な毎日を過ごしていたわけではありません。お孫さんなどご家族もしょっちゅうお見舞いに来られていて、お茶会などにも一緒に出られて、楽しそうにしていることが多いという風に聞いていました。それだけにAさんの言葉は意外だったのです。
私は率直に尋ねることにしました。「Aさん、どうしてそういう風に言われるのですか。」すると、彼はまたたどたどしく答えられました。私は何度か聞き直して聞き取れたのは、「みんなに面倒をかける。」ということでした。必死にそのように訴えられるAさんの手を握りながら、私の目からは涙が溢れてきて、しばらく言葉が出ませんでした。人生90年近く生きてこられて、私に必死に訴えられたのは自分は家族の迷惑になりたくないという思いだったのです。しばらく沈黙が続きました。そして最後に私の口から出てきたのは「Aさん、よくお話ししてくださいました。良く生きてこられましたね。」という言葉でした。その言葉がふさわしかったかどうか分かりません。でも何か自然に与えられた言葉のような気がしました。するとAさんはふりしぼるようにして「先生のお陰です。」と言ってくださったのです。Aさんのその一言で、私たちは救われたのです。私はAさんの手をしっかり握り、感謝とお別れを言って、病室を後にしました。Aさんはその2日後、亡くなりました。
ホスピスのこころ研究所 理事長 前野 宏