NPO法人 ホスピスのこころ研究所

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コラム「前野宏のホスピスのこころ」~第5回~

「ケアは双方向」

 

前回のコラムで、家族に迷惑がかかるので、ご自分を「火葬してほしい」という老年の患者さん(Aさん)の事をお話ししました。「こんな状態で生きていることは意味が無いので、死なせてほしい。」そういった苦痛をスピリチュアルペインと呼びます。生きることそのものの苦痛です。Aさんの苦痛はまさにスピリチュアルペインでした。

終末期の患者さんの苦痛を近代ホスピスの生みの親であるシシリー・ソンダース先生は「Total Pain(全人的苦痛)」と呼びました。全人的苦痛には身体的苦痛、精神的苦痛、社会的苦痛そしてスピリチュアルペインの四つの側面があると言います。スピリチュアルペインは良い日本語訳が無いので、最近ではそのままスピリチュアルペインと呼ぶことが多いようです。

緩和ケアは患者さんの全人的苦痛を和らげる(緩和する)ことが大きな役割です。ですから、Aさんのようにスピリチュアルペインで苦しんでいる方を見るとスタッフは何とかして上げたいと思うのです。

しかし、Aさんのように90年間生きてきて、自分という存在そのものが家族の重荷になっている事に耐えられず、「死にたいんだ」というような深い苦悩に対して、人生においてはるかに若輩である私たちが、「Aさん、あなたにはこんな楽しいことがあるでしょう。こんなに素晴らしい家族がいるでしょう。」といった気休めのような慰めを言ったとしても、何の足しにもならないことは明白です。いやむしろ、Aさんにとっては侮辱とさえ感じられるかもしれません。

私はその回診の時、何も言うことができず、ただ患者さんの手を握りながら涙を流すことしか出来ませんでした。そして出てきた言葉が「Aさん、よくお話ししてくださいました。良く生きてこられましたね。」でした。するとAさんは言葉を振り絞るようにして「先生のお陰です。」と言ってくださったのです。Aさんの根源的な苦悩に出会い、誠実に向き合った時に返す言葉も無く立ち尽くす私に対し、Aさんは救い手のを差し伸べてくださったのです。私たちはAさんのその一言で救われたのです。

緩和ケアの現場において、患者さんがスピリチュアルペインを言葉にするということは日常的に起こることではありません。そのような根源的な苦痛を患者さんは誰彼に気軽に言うことは出来ないのです。そのような事を伝える相手には信頼感が不可欠だと思います。であるならば、そのような言葉を聞いた私たちは、「よくぞそのようなお辛いことを(この私に)話して下さいましたね。ありがとうございます。」と思うべきでしょう。そして、患者さんの根源的な苦悩を誠実に真摯に受け止める時に、Aさんのような感謝の言葉を頂くことは少なくありません。その時ケアされているのは実は私たちなのです。ケアは双方向なのです。

ホスピスのこころ研究所 理事長 前野 宏